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自分の過去のことや好きなこと、日常で思ったことetc…あらゆることを私目線で語っちゃいます(*'▽'*)

私の30年史⑶☆高校〜現在編☆

こんにちは!マイクラです(^ ^)

これまでの人生の続きを書きたいと思います。

前回は中学生だけで終わってしまいましたが、今回は高校から現在までの私の歩みです🍀

(先に言っておきます。だいぶ長くなります💦(笑))

中学時代は部活や家庭で結構辛い時期を過ごしていましたが、大人になっても色々ありました。

大学生で始めたアルバイト、そして、常勤保育士になった園でも辛く、更に、大切な家族の死もありました。

そんな高校生以降の私のエピソードも最後までもしよかったら目を通してご覧ください。

それでは、スタート!!

 

☆高校生の私☆

・県立高校に通う。

姉が私立に通っていたため、私まで私立だと家庭のお金の負担になってしまうと考え、公立に行くことを第一優先に考えていた→見事合格。

 

○クラスでの私。

高1の時は、同じクラスで友達が数人できて楽しく過ごせていたが、高2では仲の良い友達とクラスがバラバラになってしまい、周りに馴染めず、浮く存在になった。修学旅行の前に、クラスでバスの座席や泊まるホテルのメンバー等を決める際、私はどのグループにも入れず残り者になり、修学旅行当日もグループの輪の中に入れず、楽しく過ごせなかった…。そんな私の様子を担任の先生も心配していたあめ、自分が情けなく恥ずかしく感じた。しかし高3の時は、高2の時の担任の先生の配慮もあったからか、同じクラスに仲良い友達が多くいたため、1年間楽しく過ごせた。

 

○部活での私。

・小学校、中学校と同じく高校でも吹奏楽部に入る。クラリネット担当。先輩、同学年、後輩みんなで仲良く活動できた。

・学生指揮者も任され、合奏の時間に、顧問の代わりに指揮をしたこともある。

・高3の演奏会では、ソロを3曲吹いたり、ビッグバンドで初めてテナーサックスを担当して披露したり、司会や指揮も経験した。今までなかった体験ができてとても貴重で楽しかった。

・部活3年間は楽しく過ごせた。自分の頑張りが周りにも認めてくれたりもあって、自分らしく楽しく活動ができた。

 

○家庭での私。

・母の体調が悪くなる。

中学の頃より、父との揉めあいはなかったが、母が横になってぐったりする姿が見られるようになった。

・祖母の認知症

認知症が進行し、夜中に祖母から何度も電話をかけてきて、母が毎回それを受けていた。私も電話が鳴るたびに夜中目が覚めることもあり、母の体調が悪くなってるのも心配だったため、祖母との電話してる母を見に行ったりしていた。母の眠れない様子を見て余計に心配になった。

 

○勉強

3年での進路決めを視野に入れて、勉強は頑張って取り組んだ。高1の時の成績は良くなかったが、高2からテストの成績が上がり、高3では学年の総合順位1位を取って成績も良い状態が続いた。その成果があったからか、大学では指定校推薦で入学が決まる。

 

☆大学生の私☆

・保育学科へ入学。進路を決めるのにすごく時間がかかったが、保母さんを10年やってた母の話を聞いて興味を持ったり、母と同じく自分も子どもが大好きというのがあり、保育の道に進むことに決める。

・大学でも吹奏楽のサークルに入る。人数は少なかったが、先輩・後輩、同学年みんなが仲良かった。私も本来の明るさや楽しさを出せて、部活でも三年間楽しく過ごす。副部長も経験した。

 

☆アルバイト☆

・大学に入りすぐ、コンビニのアルバイトを始める。しかし仕事が覚えられず、失敗も多かったため、店長や一緒に働くバイトの人たちから冷たい目で見られる。特に店長はお局様で、私に対して毎回嫌味を言ってきた。

・バイト始めて2、3ヶ月経った時に、お酒やタバコの販売について店長から教わる際、

「未成年に売らないように気をつけなさいよ!もし売ったりしたら知らないからね!」と強めの言い方をされた。その店長の言葉ですごく怖くなり、レジに立つ時も足がガタガタするほどだった。又、被害妄想も酷くなり、バイトから帰宅して寝る時も、未成年にタバコを売って、警察に捕まった自分を想像してしまうこともしばしば。(実際は売ってないが、もしそうなったら…という妄想で恐怖感いっぱいだった)バイト行く前にものすごい不安に襲われたり、ひどい時には「行きたくない!」と言って泣くほど嫌になってた。

・夕方のシフトで入ってて、店長も入ってる時間帯だったので、毎回冷たく言われ続けた。ある時ずっと溜めてた辛い気持ちが溢れてしまい、限界を感じて、家の2階のベランダから飛び降りようとした

→それを見てた家族がすぐ止めに来て、バイトでの辛い気持ちを初めて家族に話すと、「バイトそんなに辛かったら辞めてもいいよ」という言葉を掛けてくれて少し楽になった。もう少しだけ続けようと決めて、その後もバイトは通い続けた。

・バイト3年目から早朝のバイトに変わる。

→早朝は私ともう1人の2人でやっていたが、私に呆れてたからか、バイト中はほぼ会話することなかったため、その時間がとても苦痛だった。ミスしそうになるとフォローはしてくれるがすぐにサッと去ってしまう。孤独な時間が辛かった。

・4年続けたが、少しずつバイト行くのが辛くなり行く日数が少なくなる。大学4年の卒論や就職に向けての準備を理由にバイトを辞める。

→働くことに対して恐怖を感じてしまった。これから社会人になってちゃんと働ける自信をこの時からもう失くしていた。

 

○母の死…○

・大学3年の時に母が倒れる。肝臓が悪くなり2週間ほどの入院の後に亡くなる。52歳だった。

亡くなって9年が経ったが、未だに母を助けられなかったことを後悔してる。

 

☆就職☆

・大学卒業後、私立保育園へ就職。大学の先生

に進路相談をした際「しっかりとしてる園で、ここなら成長できる」と勧められた園で、私も保育士としても人間としても成長したいと思い、就職を決めた。常勤保育士になる。

・1年目→0、1歳児担任。就職してからしばらくは先輩達とも仲良くやれていたが、9月にある事件を起こしてしまう…

○オマル破損事件!○

・園では陶器でのオマルを使っていた。

(↓写真のような形)

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私がプラスチックのカバーを外し、洗い流そうとした際、プラスチックを外した状態(陶器の中)で園児が排尿してしまった。そして、陶器を持ちあげて流そうとした瞬間、手が滑って陶器のオマルを落としてしまい、オマルの底が少し割れてヒビが入ってしまった。

それをすぐ報告するべきだったが、私は気持ちが動揺してしまい、すぐに担任や園長に報告するのが怖くてできなかった。その日に1人の担任と園長がオマルの破損に気付き、職員に1人ひとり聞いた時に、「私が割ってしまいました。すいませんでした!」と正直に話した。すると園長から、「なんで報告しなかったの?あなたのせいでみんなが迷惑かけたのよ!」と注意され、何度も私は頭を下げた。

→本当にダメなことをしてしまったと後悔した。すぐに報告せず、職場のみんなに迷惑かけてしまった自分が情けなくて恥ずかしい思いだった。

その日以降、園長から冷たい目で見られるようになる。園長に園長室に呼び出しされ、「あのオマルは高かったのよ!処分して新しいの買わなきゃいけなくなったんだからね!」と言われたりした。

・他のことに対して言われることもあった。

お給料袋を「ありがとうございました」といって直接渡す時も「渡す方向が間違えてるわよ!封がある方を向けないで渡すんでしょ!それがマナーでしょ!」と細かいことを言われたり、職員会議の体制にする準備の時も、「ほらほら、あなた一年目なんだからちゃんと動いて準備するんだよ!」と言われたりした。また、「あなたみたいな人初めて見たわ」「お母さんも泣いちゃうわよ」とも言われ悲しくて悔しかった😢

・ミスや失敗があって注意されることも多く思うように、1年目では担任としての保育の仕事がうまくできてなかった。

・2年目→園長や主任から「一年使って勉強した方がいい」と言われ、「フリー保育士と一時預かりの担当」になる。

フリー保育士では、様々な年齢のクラスに入り、担任の補助役として入る。また、一時的に預かる子と関わって時にはクラスの中に入って一緒に保育する。

様々なクラスに入り、補助の動き方も難しかったが勉強になった。一年目の担任の時は、責任や仕事量に追われていたが、2年目は責任や仕事量の負担が少し減って、様々な年齢の子達と深く関われてた。また、一時預かりで毎日来る子(2歳の女児N子ちゃん。人見知り、恥ずかしがり屋で身体も弱い)が少しずつ笑顔で保育園に来るようになり、同じ2歳児クラスのお友達と笑顔関わったり、元気に外で動いて遊ぶ姿も見られるようになった。ある先生から、「N子ちゃん、マイクラ先生と関わってからすごく変わったね!」と言ってくれた時は嬉しかった。

・園長からの嫌味は続いた。補助としての動きができてない時、「ほら、そこは補助のあなたがやらなきゃ!」「あなた補助なんだから!」と言われることが多かった。

・運動会や卒園式ではピアノの担当になる。毎日夕方残って練習したり、家でも夜遅くまで練習する。

→当日はすごく緊張したが、何とかやり遂げることができた。終わってから、ピアノのことで先生方から「よかったよ」と言われることもあった😊

・3年目→0、1歳児クラスになる。同じクラスのリーダー的な先生から冷たい目で見られることが多かった。「マイクラさんやって!」「何やってんの?」と言われることも。

・園長からの冷たい視線は続いた。職員会議で、私が意見を述べてる時に、嘲笑われて「それは違うと思うけど」と園長に言われたりすることもあった。

○精神や体に異変が・・・○

・職場でのストレスがかかり、精神科のカウンセリングに週1で通う。毎回30分のカウンセラーを受けたり、知能検査も受けたりした。

・保育中に足首に捻挫のような痛みが出る、その後ふくらはぎにも痛みが感じ、数日後歩けないほどの状態になる。病院での診察の結果、靭帯損傷と肉離れ。原因は不明。→2週間の休職。

その後復帰はしたが、体調が悪くなり休みがちになる。→常勤保育士を3年勤め、年度末で退職。

 

☆無職期間…そして、現在の私☆

・4月から11月までの7ヶ月間、無職。

ハローワークに通い雇用保険を受けながら生活する。この期間にゆっくり過ごしながらも、カフェで自己啓発本を色々読んだり自分自身を見つめ直す時間に充てたり、自動車学校で運転免許習得をした。

・父と揉めあうことも多く、「なぜ仕事しないんだ!働け!」「若いのに休むな!」等強く言われ続ける。

・次の働き場所を探す意欲が起きないまま日々過ぎていた。ある時「自分を知る」というセミナーを受け、グループセッションで「頑張ったこと」について1分間スピーチを行った時、私は常勤保育士3年間で頑張ったことを話した。

→同じグループの人から「話がわかりやすかった」「辛い中で頑張ってきたのはえらい」という発表で良かった所をもらい、少し自信を持つようになる。これを機に仕事探しを少しずつ始めるようになった。

・11月下旬、ハローワークの求人で、小規模保育園のパート保育士の募集を見て応募する。保育以外の職業への道も考えていたが、無職期間中に街を歩いてると、小さい子どもを見かけることが多く、子どもと触れ合いたい気持ちが改めて出てきて子、自分は子どもが大好きだと改めて実感し、パートから保育をもう一度始めたいと思うようになった。

→12月に面接。その日に合格を受け、パート保育士で働く。(現在4年目)

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私の30年史は、これでおしまいです‼️

長々ーと大変失礼致しました🙇‍♀️💦💦

 

幼少期から現在まで、今までの人生振り返ると、ほんとーに色んな事がありました。

今は少しずつ自分を受け入れられるようになってきましたが、過去はずーっと自分何度もダメだと感じて責め続けたり、痛めつけたりしながらも自分なりに出来ることを頑張ってここまで生きてきた。そんな30年でした。

 

でも、私の人生はこれからだと思っていて、今まで以上に自分自身を大切にして生きていきたいと思いました。

辛いことばかり話してしまいましたが、この30年があったからこそ、今の私があると思っています👑

これからは少しずつでも自分らしく、楽しく、前向きに人生を歩んでいけたらと思います。

こんな私ですが、これから少しでも応援し温かく見守っていただけると嬉しいです☺️

よろしくお願い致します🌸